2007年2月24日

non title

あと20日かぁ。

何か今日、ITPのテストと、中国語の挨拶が終わりました。
疲れたーて感じなのですが、明日にこうとうぶの面接の予定が入ったという、悲しきやw

昨日の音楽の時間の、発表の待ち時間に、隣のクラスのFくんと興味深い話をしてました。
それは、中学時代になかなか輝いていた人手、高校に入って一気にスランプ?に陥っている人が多いのは何でだろう~?っということでした。話題にのぼった娘は、中学時代はクラスのリーダー格や生活組織の長、部活の部長、ちゅうとうぶの活動など、みんながあこがれるほど活躍し、目が輝いていたのですが、高校に入ってからというもの、悩んでいるのか知りませんが、部活もあまり出ず4時半くらいに駅で目撃したり、生徒会やクラスでも目立った活動をしているわけでもなく、学校にもHR直前に登校し、勉強の方でも赤店ギリギリをいつも通っているようです。他にも、一学期や二学期くらいまでスランプチックになっている、中学時代の~~女子実行委員長みたいのがいたんですが、彼女は今は元気です。生徒会等でも活躍するようになって来ました。彼女らに共通することは、なんだったのか、何が高校時代の大きなスランプの原因になっているのか、考えてみました。

中学時代、凄くがんばっていた。それは自分の力もあるが、学園の大きな潮流に乗っかってその流れの方向に進んでいった。もちろん、それはいいことではあるのだけれど、それだけに傾注しすぎると、自己のアイデンティティが失われていく。つまり、ある程度上の役職を持っている人が、「みんな同じ感じ」になってしまっているのだと思います。似たようなことは、去年の卒業シーズンにブログに沢山書きました(2005年11、12月ごろ)。中学の頃から、少し疑ってみたり、全部が全部がんばっていたわけではない人は、今スランプにはならず、むしろ輝きをましています。中学時代、「団結」という美名の下、自分の意思を押し殺していたクラス(えとぴ)にそういう傾向があるようです。なんでこのようにそのような中学時代に自分でよく考えた結果でなく、「いい」とされる方向に進んできた人たちが、今、高校で、イマイチなのか、考えてみました。それは、高校になればもちろん、クラスで団結する重要性が小さくなる分、個人が独自の道を歩み始めます。個人がそれぞれの信ずる方向性を基に、成長の方向を決めます。もちろんそれは、校訓にあるような大きな方向は皆同じでありますが、その一段したの、詳しいところ、言い換えれば、普遍的でない、それぞれの行動基準と密接に結びついているところ、それがみんな違うわけです。中学の頃は、与えられた模範に従うだけでやってこれました。その模範は、「与えられて」いました。しかし高校では、その模範は「与えられて」はいません。ありはします。その模範を獲得し、さらにそれを実際の生活にあてはめ、また、自分の価値観として醸成し、自分を作っていく。それは、「自分で」やるしかありません。いままで与えられてきたものを素直に取ってきた人は、その「自分で選び取る」ことに戸惑っているのでしょう。どうすればいいのか、一瞬、分からなくなっているのです。

しかし、この壁は越えられないものではありません。むしろ、中学後半から高校にかけて、一度は皆にやってくるステップだと見たほうが正確だと思います。「模範を素直に考えずに受け入れてきた人」というのはそのステップを隠してもらってた、取り上げられていた、と考えた方がいいと思います。そうすると、中学時代にその壁は来ない。そうでないひとたちには、中学時代に一度は、何をすればいいのか分からない、何が正しいのか、何が正義なのか、今どこにいて、どこに行くべきなのか、重く受け止めすぎて悩みぬいたことがあると思います。その人たちが今輝いているように、今スランプに陥っている人たちも、この壁をのり越えれば、より一層、価値の明白になった、目的感の明白になったすがすがしい生活を送れることでしょう。

そういう意味では、自分の中学二年生、いわゆる「暗黒時代」は無駄ではなかったと思います。あの時代が、今の自分の大きな心を作っている。あの時のスランプを助けてくれた人(過去ブログ2005.11.22参照)が、今スランプになっている。自分のやることは明白ですね。

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